死教

一人用です^^

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現在、私、独りだけの教団 死教 これの理は、世の中に絶対はない、あるのは必ず死ぬということだけであり、故に、死は安らかな眠りでなければならない・・・を信条としております。
その安らかなる死を迎えるためにはどうすればよいのかを、みなで考えてゆこうではありませんか。


我が死教は信者の募集はしていないのです。教祖とは名ばかりであり、死教の信者は私独りであります。自分自身の悟りを開くための宗派なのです。
本当に能力のある者ならば、その教えを他者に向けることもできましょうが、私は信者を集めうるような魅力もカリスマ性も持ち合わせてはおりませぬ。
それでもよろしければ、わたしの、強いては我が死教の教えを述べさせていただきましょう。

では、僭越(せんえつ)ながら、、もうさせて頂きましょう・・・。

誰かを否定し、理解しようとしないものには悟りは訪れない。この世に絶対があるとすれば、それは、人には必ず終わりがあるということだけだ。それ以外に絶対は存在しない。
故にわたしの言う他者を理解しなければ悟りは生まれないという理も、絶対ではない。
・・・つまり何が言いたいかというとだな・・・。己で考えよと言うことだ。 

我が死教は矛盾も信条としている。そこに答えは無いからだ。考えに縛られるのもよくは無いが、考えることをやめるのもまたよくはない。故に 死 以外に絶対など無いのだ。

人と比べるのはやめるのだ。個人個人で力量や得意分野は違う。我が教の悟りというのは己を律することなのだ。
それは他者と比べていてはできぬ事。他人は自分ではないのだぞ?
他の者を批判する前に、自分を省みる(かえり)といい。
・・・自分の言っている事が、正しいとしたとしても、それはその者の正しさなのだ。
どこまで人を許せるようになるか、それこそが大切なことなのだ。
無論、どうしても許せぬことがあるだろう。そのときこそ、自分の中の正義が試されているものと思え。
正義が悪に堕ちうることなど、簡単に起こりえるのだ。

などと、偉そうに申しております。ですが、私自身もまだまだ鍛錬中の身の上、恐れ多い事と申しますが、少しでも思う所があるのでしたらば、心にとどめて置いてくれればと、思います。




「夢はみているだけでは叶わない、追いかけ続けたものだけが、それを叶える事が出来る。これは、自分自身の言葉なのですが・・・確かに、見ているだけでは叶わないのは間違いないのですが「何故叶わないのか?」「これだけ頑張っているのに・・・」などと叶えることを目標にしすぎると無理が祟ります。
ビールは勢いよく注ぐと、一杯にはなるが泡だらけになる。この泡が希望を叶えるために無理をした結果であり、美味しい部分は少なくなってしまうのだな。ゆっくり注げば、時間はかかるが、美味しいビールが飲めるなぁ〜・・・などということを、先ほどの言葉と共に自家製ビールをビンに詰めながら考えもしていたのですよ」




時折、宗派をもっているのに、信者を持たぬのはなぜなのか?と、問われることがあります。
その都度(つど)にわたしには、そのような裁量も器量もないと申し上げているのですが・・・。
それが、なぜなのかをここで、公言いたしましょう。

わたしは、思考という波のなかを漂っているからです。
感覚、や、感性で感じることは、昔よりはできるようにはなりましたが、それでも、思考の波を漂っているのです。
思考の制御がややできるようになった、その程度の事しか成しえていないのです。

思えばわたしは、思考に支配され続けていました。これは、もう一人の自分なのです。
それを自我と呼ぶのか、それとも、流された思い込みなのか・・・。それすらもわからぬのです。
それでもわたしは、擦り付けられ押し付けられた、自分ではない別のなにか・・・を感じ、それに支配されたおのれ自身に対し、何かが違う、と思い始めたのです。

思考を捨てよとは申しませぬが、思考に支配され続けていたのではないかと・・・それに気がついた所であり
わたしは今だ、考えない無意識とは違う、別の視点を心の目でみられるようになるまでには、いまだ、いたってはおらぬのです。

人生は、鍛錬であり、修行なのです。理不尽なことに怒り、思い通りに行かぬ事に憤り(いきどおり)
わたしは、何度も道を踏み外しております。

今でも、踏み外すのです。おのれを律することができぬことがあります。

信者や弟子を持つなどということは、この程度の者にはできはしませぬ。

人に教えを説くという責任を果たすには、私は未熟なのです。

それでも、このように耳を傾けてくれる人々がいることに、頭(こうべ)を垂れ、日々を生きております。




「ほかの誰かにできることができなくて悔しいか?・・・だがお前にはそれはできない。出来ない事や適正の合わない事を無理にやる必要はない。それは無い物ねだりだ。・・・そんなことを無理に続けていると、手に入るものさえ失ってしまうぞ」


「不変的なことは存在しない。人は今のままでいいのか?もしくは今のままがずっと続けばいいと思っている。
 今が良いのならば別に良いが、変えたいと思っていて、それ故に焦りがあるのであれば、覚えておくといい。
 10年後20年後、まったく変わっていないなら奇跡だ。変わらない事はない。故に人は不変的なことを恐れ、また、憧れるのだ」



「人が生きてる意味?・・・はっきりといっておこう、人生には生きる意味などない。
 故に、価値のある人間も価値のない人間もいないのだ。
 それは後付に過ぎぬ。
 理由がないと生きられぬ、というのであれば、自ら生きる意味を見出すしかあるまい。
 ・・・だが、それは茨の道でもあるのだ・・・痛みを伴う、茨の道だ。
 特に、他人に認められたいという願望があるのであれば、尚更(なおさら)な・・・。
 嘗て(かつて)の私も同じ道を歩んでおり、そして、その道を諦めた。
 諦めから生まれるものもあろう・・・精々(せいぜい)心を病まぬように気をつけるのだぞ。

 こうでなければならぬ、自分はこうなのだから、こうであるべき。・・・そのような考え方は自分はおろか、他人すらも傷つけるぞ?
 ある程度の礼節や気遣いは大事だが、自分や誰かを追い詰めるほどであるのであれば、改めたほうがいいであろうな」



「弱者を虐げた世界に、未来はない。なぜだか教えてやろうか?・・・弱者を排除し、強者が残ったとしても、その中から弱いものが生まれるだけだ・・・その先は、解るな?」


「自分自身・・・それを迷うことがある者も多いだろう。自分は何者なのか?何がしたいのか・・・。そこに行き着き、考え、思案に暮れる者に、わたしが答えられることが一つある。
 その夢や望み、己という人物像が果たして、本当に自身から作られたものなのかを考えてみるとよい。そして自分とは違う別の何かに思えたとしたら、それは他人に作られた錯覚に過ぎぬ。

 理想と現実とは違うのだ。・・・だが、理想とは夢だ。人は希望がなければ生きられぬ、夢を見ることは生きる活力になるであろう。・・・少なくとも、夢すら見られなかった者よりは、な」




「効率のために人間性を犠牲にできるか。私には無理だ。どんなに社会的に落ちぶれても 人 でありたい。だが、強固であるが薄いその何かが崩れたときには、雪崩のように。私は 本物 になるだろう。
 祈りを捧げよ・・・救いを求めよ。それこそが安息である。
 憎しみと羨望により人を救おう。

 憎しみで人は救えはしないと、考えも無しに答える者がいたとしたら、それは 本質 を理解していない者か・・・さもなければ 聖人 であろう。なぜなら、私が人を救いたいと思い、英雄に憧れたのは、自らが不遇であったが故だからだ。

 何をそのくらいで・・・と言う者もいるだろう。その答えを述べられた時点で相反するのだ。だが、相対する者にも救いを与えなければならぬ。
 祈りを捧げよ。死の祈りを。憎しみと言う名の賛歌により。救いを与えよう。


 これが今のお前だ。情報社会に生きているのだぞ?どうでもよい話から、聞きたくもないことまで勝手に入ってくる・・・。馬鹿正直に真正面から全て受け止めていたら身がもたぬ。適当に流せる器量をもてば、今よりももう少し感情も穏やかになろう」



「死こそが救い。死ねば楽になる。それは間違いではない。
 生きるのは苦痛、努力、根性、精神、押し付け・・・それも正しい。
 物事とは全てにおいて正しく、そして、全てにおいて間違っている。
 自分自身がどれを正しいと思うか、、思い込むか、それだけだ。

 今の世の中が正しいと思っているのならば、それに相反するものは全て殺せ。
 それが間違っていると思うのであれば、悪魔にでも外道にでも、そして、鬼にでもなりてそれをなせ。

 己が正しいと思う道を成すには、犠牲が不可欠である!!

 銃のない、血の流れない革命など存在しない!!
 敵とみなした相手は殺せ!!
 気に入らない上司が居れば殺せ!
 気に入らない奴が居れば殺せ!!
 そいつも、そいつの家族も全て!女子供がいて、好みなのであれば徹底的に犯せ!
 その後で、犯しながら腹に刃を突き立て、生きたままそいつの目の前で臓物を引きずり出してやれ!

 サラリーマンと化した警察から銃を奪え!・・・自らを否として認めぬ輩に、紅蓮の矢を打ち込んでやれ。

 それができぬのであれば、お前は、人としても、生き物としてもゴミだ。
 何の価値もない、不満ばかりたれて死んでゆく、その辺の糞尿と変わらん。
 ・・・いや、糞尿のほうが、肥料になるだけまだマシか、ははは・・・。

 ・・・怒りが湧くか?・・・お前が本当に守りたいものは、なんだ?

 綺麗ごとでは、何も成せぬぞ、誰も犠牲にならずにすむ方法?
 そんなものは、存在しない。夢は、、夢だ。覚えておけ」




「人の本性をみたいなら、権力などの力を与えればよい
 だが、覚えておけ。力を持ち、正義の為にそれを使ったとしても、それは所詮、その者の正義に過ぎないのだ」


「悲劇的な物語が好まれるとき、世界は平和である。喜劇的な物語が好まれるとき、現実は悲劇である。・・・誰の言葉であったかな」



「寝ているときが一番良い。なにも、考えずにすむ。・・・死者を起こすという事は、寝ている人間をたたき起こすことに等しい

 死の聖なるかな 死こそ幸せ 死こそ救い 死こそ安らぎ。我が死教において、死は最期の綱であり、最期の救いである。どのような者も、死ねば、、安らかに眠れるのである。
 悪人だろうと、聖人だろうと、ただの人だろうと・・・全てにおいて、確固たる絶対的な事柄であり
 そして、死に方はどうであれ、平等に訪れるもの・・・それが死なのだ。
 永眠こそが、唯一絶対の救いなのだ。
 これだけは、何人たりとも、、例え神であっても、冒してはならないものなのだ。
 だからこそ、我が死教においても、ネクロノミコンは・・・死霊術は禁忌なのである」








「お前も老いたな・・・弟子はとらぬといっていた私に、無理やり着いてきて教えをこうた日々は、もうすぐ終わる。

人は人であらねばならない、それに気がつくのは人の身でなければならぬのだ・・・私はずっとそのような者を探してきた。永遠の中ではなく、輪廻の中で、限られた日々のなかで、それを見つけられる者を・・・。

覚えているか?・・・欲を捨てよといったが、人であるのであれば、欲は捨ててはならぬと教えた日のことを・・・。

・・・私の全てを話し、お前に・・・我が 死霊術 をもちいれば、私と同じようになれる、なりたいか?と、そう、聞いたときの事を・・・。

あのときの言葉は、忘れぬ。 人として生き、人として死ぬ それが、それこそが、己の生き方であり、最後に残った欲・・・そして、師であるあなたのへの・・・っ・・・。

お前は、見つけたのだ。人の道 を・・・。案ずるな、幾度となく味わってきた苦しみだ。

・・・休むが良い。定命(じょうみょう)の者にのみ、許された安息だ。

・・・幾度となく、数え切れぬほど 死 を見てきたが・・・やはり、慣れぬものだな・・・」






貴様にはわかるまい。定命(じょうみょう)の者たちが見せる、限りある者たちが見せる美しさを・・・。
貴様にはわかるまい。限りある者の美しさを知ろうともしなかった貴様には・・・。

・・・ふっ・・・そう、私の身を案じてくれるな。
もとよりすでに・・・永遠の命をもってしても、長くは持たぬ身だ。

お前の言うとおり、限りある者の中には、愚かな者もいる。
だが、その中の幾人かが・・・私の心を掴んで離さぬのだ。

・・・そうまでして定命の者に尽くし、得た物は何か?・・・か・・・。
格好をつけた言い方をすれば、刹那の煌き(せつなのきらめき)・・・だろうな。

私の命と共に、我が死霊術の全ても消える・・・。

死に、耳を傾ける者も・・・。

さらばだ。もう、会うこともあるまい。



幾たびも、限りある者に身を焼かれ。そのたびに私だけが死から蘇ってきた。

私を殺した者は限りある者だが、私を庇い、私と共に焼かれた者もまた、限りある者だった。

時代が変わり、身を焼かれることはなくなっても、次は心を焼かれることが多くなった。

同じように、心を焼き尽くされた定命(じょうみょう)の者がいた・・・。

人同士の争いは絶えぬ。

それに疲れ果てた者が、私に集った(つどった)。

死に救いを見出し、死があるからこそ生きられる。

定命の者でさえ、そうなのだ。

一度輪廻の輪から逃れた者、永遠を手にした者の、孤独と悲しみ・・・。

私だけが、その様な者に 死 を与えることができた。

それができぬようになるのが、心残りではあるが・・・。

何より、人の 生 をもう少し、見ていたかったが・・・。

・・・幾分、疲れた・・・眠るとしよう・・・。
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